今住んでいるところ、職場界隈、生まれ育った所と順に紹介してきましたが、今日は今まで住んでいた所の話題です。
私は、幼少のころから28歳まで東京の杉並区に暮らしていましたが、結婚してからは東京都保谷市(現在は西東京市)ひばりが丘に、ほんの僅か住んでいました。通勤は西武池袋線で池袋まで行き、そこから地下鉄丸ノ内線に乗り換えて大手町まで通勤していました。井の頭線以外で通勤したことがなかったので、始めは緊張したのを覚えています。
その後、小平市へ転居。小平市は今でも変わらず小平市ですね。今度は同じ西武線でも新宿線です。花小金井から高田馬場で地下鉄東西線へ乗り換えての通勤です。当時、地下鉄東西線には車内冷房が完備されていませんでした。夏の通勤は地獄のような暑さでした、今考えると信じられませんね。
住んでいたのは、都立小金井公園や小金井カントリーの近くで、ほんとに緑が多く、夏の初めにカッコーの鳴き声が聞こえたのには驚きました。東京でカッコー!信じられます? しかし、いいことばかりじゃなかったのです。家の周りに杉の木がたくさんありました! 春になるとオレンジ色の花粉が容赦なく飛ぶのです。花粉症が発症したのがココでした。いやー、ほんとにひどかったです。そう考えると、花小金井って悪い想い出ばかりのようですが、楽しい思い出もいっぱいあります。最初の子が産まれたのもここですし。善き隣人にも恵まれ、家族ぐるみで仲良くさせていただきました。その時の隣人達とは、今でも連絡を取り合っています。
花小金井から転居したのが大阪府和泉佐野市。始めての関西なので、家内もかなり苦労したようです。スーパーに売っている食材が、何気に違うのです。納豆売ってない! わさび漬売ってない! おでんに入れるちくわぶ売ってない! ないないだらけです。通勤は主にJR阪和線で天王寺まで、帰りは南海本線を利用することもありました。ここでのトピックと言えば何と言っても「関空」でしょう! 和泉佐野の海岸から山側に少し上った所に住んでいましたから、窓から淡路島が良く見えました。そこへ関空建設が決まり、海上に杭が打たれて埋め立てられていく様子を眺めていたものです。和泉佐野の街も急速に変化していったのを覚えています。2番目の子もここで生まれました。当時の市立和泉佐野病院はとっても綺麗でびっくりしました。 大阪へ転居した当時、上の子は2歳半位だったのですが、あっというまに関西人になってしまいました(笑)。完璧なネイティブ関西弁を話すようになっていました。近所の子供達との遊びのなかで自然に身に着いたもののようです。関東に帰ってきたら、あっという間に関西弁が消えてしまったのはちょっと寂しい気もします。
再び関東へ戻って、神奈川県の藤沢市の辻堂へ。こちらも海沿いであることは、和泉佐野と同じですが。和泉佐野がこれから空港の街として発展していくところなのに対して、藤沢は湘南文化の中心地として、既に栄えている街だということです。
こちらでの通勤は、東海道線辻堂駅から東京駅まで、帰りは座れるので楽ちんな通勤でした。
そして、現在の長生村へ。最近の3か所は海の近くが続いていますね。海はいいことばかりじゃないんですよ。海が近いと塩害があります。海が南にある藤沢がいちばん酷かったですね。そして、なによりもこわいのが津波の恐ろしさでしょう。東日本大震災のときは長生村に住んでいましたが、10メートルの津波が来るってことで、避難指示が出たようです。私は電車が止まって帰れず、妻だけが避難所に行きました。津波はほとんど来なかったのですが、電話も通じないので詳しいことがわからず、不安な一夜を過ごしました。
今まで住んだ所を紹介しましたが、たぶん現在住んでいるところが最後の住所になるんだと思います(たぶん)。
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