長生村の海ってどーなの? どんなアクティビティがあるの?

長生村の海岸には一松(ひとつまつ)海水浴場があります。海水浴シーズンには、海岸に「海の家」が出現します。規制により通年設置が認められていないので、海水浴期間中だけの設置になります。シーズン中はライフセーバーによる監視があるので、安心して海水浴が楽しめます。この監視員がいるかどうかは大切な問題です。なぜなら、九十九里浜には、離岸流「水脈(みお)」が発生するので注意が必要です。この「みお」に遭遇したら、流れに逆らって陸へ泳ぐ着くことは、どんなに泳ぎが達者な人でも無理といわれています。海岸と平行に泳いで「みお」から避けるのが一番です。流されて沖まで行ってしまっても、監視員がいれば大丈夫!?
海に入るのは監視員がいる海水浴シーズンだけにしましょう!

また、海水浴シーズンには無料で観光地曳き網が行われます。以前湘南に住んでいたこともあるのですが、湘南海岸の地曳き網は、網をウインチで巻きあげるので、参加者は網に手を添えているだけでもいいですが、九十九里の地曳き網はそうはいきません。最初から最後まで、人の力だけで網を引き上げるので、時間もかかりますし、体力も使います。その分魚が採れたときの喜びは大きいです。

我が家がこちらに越してきた頃は、はまぐりも結構採れたのですが、今はさっぱりみなくなりました。

そんな楽しさを与えてくれる海岸なのですが、近年困ったことになっています。それは砂浜がなくなってしまうことです。昔は、海岸も広くて、海の家の数十メートル先に波打ち際があったのですが、砂が削れて昨年の台風の時には海の家が建っているところまで削られてしまいました。どうしてこんなことに? 最近の研究でやっとわかってきました。
九十九里浜の海岸は、北の屏風ヶ浦、南の太東岬が波で削られ、削られた砂が海流によって九十九里浜に堆積して、浜が保たれていたのです。削られる方も、これ以上削られては困るということで、テトラポットで護岸するようになりました。結果、砂の供給元が絶たれたことにより、砂の流出超過により浜がやせ細っていったということです。
どちらも困った状況なのですが、どちららにも都合がいい解決策が見つかればいいのですが!

3.11の東日本大震災のときには、旭から片貝あたりの海岸までは津波に襲われ、結構被害があったようです。長生村の海岸はほとんど津波が来なかったこともあり、被害はでませんでした。江戸時代にあった津波では、長生村内でも多くの人命が失われたようです。それらを記録した碑文も各所に見られます。

東日本大震災以降、津波対策が叫ばれ、海岸近くに避難山や避難所が建設され、今年完成したばかりです。海岸線を走る九十九里波乗り道路も、今年に入って強化工事が行われているため、現在通行止めになっています。今年の夏のレジャーシーズンは波乗り道路が使えないので来られる方は注意が必要です。

海岸の保全は村民の安全のためにも重要なことなので、もう少し我慢するしかないですね。


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田舎暮らしはどーなの? 生活のコツ

長生村で田舎暮らしを始めてはや25年。今ではすっかり地元民? やっぱり子育てをこの地でできたことがよかったのでしょうね。リタイヤしてからの田舎暮らしだと、地元の人との交流が限られますからね。

保育園から小学校、中学校と、何かと同級生の親たちとの交流があったりで、もともとの地元民からの「よそ者感」が下がるみたいです。近所に子育て終わってから転居してきた人がいますけど、地元民との交流はあまりないみたいです。
田舎暮らしといっても、私はそのまま東京へ通勤しています。電車に乗って(必ず座って)1時間10分の通勤です。結構速いでしょ。この時間、絶好の読書タイムになって、私的には有意義な時間なんです。人にもよりますが、耐えられない人もいるでしょうね?
仕事が東京なので、東京の暮らし(元は東京人です)と長生村の暮らしの両方を知っているので、比較してみたいと思います。

空気がきれい! 当たり前ですね、車の量が違います。地元しか走っていないと車のボディーも汚れませんが、1日東京へ行ってくると、ボディーは真っ黒! この違いはすごいです。

その車ですが、車がないと生活できない。車を運転するには当然運転免許が必要です。奥さんはもちろん、子供も18歳になったらすぐに取得しないと厳しいです。どこに行くにも車を使いますから、歩かなくなります。意識して運動をしないと運動不足になります。逆に、東京暮らしは大変です。買い物に行くにも歩きか自転車、ティッシュペーパー5箱パックを買ったらもう何も持てませんね! 田舎では買い物は車が前提なので、なにをどれだけ買っても心配いりません。これは田舎暮しの特権ですね(笑)。

野生動物が多いのも特徴です、これは昨日の記事に書きましたが、いいことだけではなく、人間に危害を加える動物や昆虫が多いのも事実です。まあ、動物や昆虫が生きていられる程環境が良いって証拠ですけど。

千葉県は、首都圏の農業地帯として、米や野菜などの農作物も多く出荷されています。なので都内より新鮮で安く野菜が手に入ります。特に農家の直販所は最高です!

夏になると、海岸では観光地引網が開催されます。参加した人には採れた魚が無料で配られます。いわしやアジなどが大漁のときは、食べきれないほどの魚が手に入ります。地元の魚と野菜、米を食べていれば食費ゼロでも暮らせそう? まあ、たまにそんなときもあります。

夜暗いので星がよく見えるのも田舎暮しの特権です。仕事から帰って海岸までウォーキングにいくのですが、特に冬は星が大量に見えて圧巻です。もっと街灯をつけてくれという話も聴きますが、暗いままにしておいて欲しいです。そうはいっても天の川まで見れる日はそうないです(というか見れた日はないです)。なので暗いといってもそこそこ明るいんですね!


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長生村界隈で見られる動物

別に外房地域だけにいるわけではないですが、私が珍しいと感じた動物たちを紹介してみましょう。

まず、二十数年前にこちらに引っ越して来たときにはよく蛇を見たものですが、最近はあまり見なくなりました。我が家の前の木にヤマカガシがいたのを、近所のおじいさんが教えてくれたことがありました。このヤマカガシ、あまり知られていないのですが毒を持っているそうです。また、海岸の松林にはマムシがいるので、林には入らない方がいいと、地元では言われています。

春になって田んぼに水がはいると、とたんに賑やかになります。蛙の大合唱が始まるからです。都会から来た人は、まずびっくりしますね! 沼地にはウシ蛙がいて、名前のとうり牛のような鳴き声なので、ちょっと不気味です。この鳴き声には可愛さは100%ないです。カエルといえば、我が家の周りには小さな青蛙がいます。まるで我が家のペットのようです。

牛といえば、蛙だけでなく、ホントの牛も我が家の近所に結構いました。酪農を営んでいる農家が数軒あったのです。今ではみなさん廃業してしまいました。そうそう、千葉県は日本の酪農の発祥地って知ってました?

野性の動物といえば、数年前に廃園になった行川アイランドから逃げだして、房総半島で大繁殖しているのが「キョン」、小型の鹿ですが、農作物を食い荒らす被害が多発しています。行川アイランドからは、「キジ」も逃げ出して野生化しているので、たまに目にします。

最近あまり目撃されなくなったのが「いたち」です。以前はよく車に引かれていました。逆に増えているのが「たぬき」ですね。道路の脇に轢かれて死んでいるたぬきをよく見ます。2ヶ月程前には、私の目の前で轢かれました。

近所には田んぼが多いのですが、必ずいるのが白鷺です。多いときは20~30羽もいるときがあります。見慣れてるといってもちょっと気味が悪いですね。最近では無農薬で米を栽培するアイガモ農法が流行っていて、アイガモがかわいらしく雑草や害虫を食べてくれています。アイガモオーナー制度というのがあって、会費を払うと、お役御免になったアイガモがいただけるというものです。かわいそうな気もしますが、アイガモの肉はおいしいですね! 結構長生村の名物になっていたりします。

鳥の話題では、忘れてはいけないのがムクドリです。ねぐらに帰る前に群れが大集合するので、空が一瞬真っ黒になるくらいです。そうそう、鳥と言えば、こちらに越してきたばかりのころ、夜車で走っていると道路の真ん中に光る奇妙なもの。近寄ってみるとなんと「ふくろう」だったのです。道路の真ん中で鳥を捕まえているところでした。暫く考えていましたが、足でつかんだまま飛んでいってしまいました。そんな経験は後にも先にもそのときだけです。結構不思議な気分がしたものです。

最後に、20年前ころまでは、我が家の前の田んぼには、夏になると蛍が姿を見せてくれていました。いつの間にか見なくなってしまいましたね。やっぱり農薬散布のせいなのでしょうか?

今でもりっぱに田舎なのですが、確実に野生の生物が減ってきています。いつまでも姿を見せてほしいものです。

 


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無限の可能性を秘めているぞ、九十九里浜

「長生人」の名前の由来を説明したときにも述べましたが、現在の住居は千葉県長生郡長生村です。九十九里海岸の一角にあり南は一宮町、北は白子町に挟まれています。サーフィンの一宮、テニス(最近はサッカーか?)の白子に挟まれて、いまいち特徴のない村になっています。しかし、人間の手がほとんど入っていない、自然のままの海岸線がこれほどの規模で残っているのは日本ではここだけ、世界的にも珍しいのではないでしょうか?

しかし、九十九里浜って面白い名前ですね。海岸線の長さが99里あるからなのでしょうか? その昔、源頼朝の命で1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったとの説が有名ですが、「九十九」は「多い」の意ともされますが、その場合だと「とっても長い海岸」ってことになるんでしょうね。しかし、古代の尺貫法では1里は6町(近代尺貫法では36町)であり、109(1町は約109メートル)メートル×6町×99里=約64.7キロメートル(実際の九十九里浜は約66km)なので、古代の尺貫法では実際にほぼ99里になるのです。 どうやら矢の本数が99本という説が正しそうですね。

昨年、大前研一氏が「いま最も魅力的だと考えている土地は房総半島の九十九里浜である」と発言しました。九十九里浜の景観がゴールドコーストと酷似していること、海岸はゴールドコーストの57kmよりも長く、近接する首都圏の人口の多さはゴールドコーストの15倍の3000万人。成田・羽田空港に近く、利用者数はブリスベン空港やゴールドコースト空港より圧倒的に多い。九十九里浜の海際には規制によって建物が全くない。これは何もなかった1960年代のゴールドコーストにそっくりなので、やり方次第で十分ゴールドコーストのようになりうるとの説なんです。その、やり方次第で大化けする可能性があるってことに、住民とすれば期待しちゃうわけですが、はたして誰が音頭をとるのか?。

しかし、首都圏の袋小路、房総半島(特に外房)に空港やあまり住民に歓迎されないような施設が出来なかったのが不思議なくらいですね。これだけ東京に近い地域なのに、よくもこの時代まで手付かずで残っていたのか不思議なくらいです。

大前研一氏が言うように、九十九里浜はゴールドコーストをモデルに、従来の日本型海水浴場ビーチの発想を排除して国際的ビーチリゾートを目指すべきだと思うのですが、ちょっと期待させることが起きています。
2020年の東京オリンピックで追加される競技が決定されようとしていますが、そのなかにサーフィンが入っているのです。今、一宮町が猛烈な誘致活動をしていますが、IOCのコーツ副会長も「千葉の可能性が最も高い」と言っているようなので、期待して見守っていきたいと思います。

オリンピックのサーフィン会場をきっかけに、国際的ビーチリゾート地となってほしいですね。


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私が目撃した歴史的イベント&建造物

私が体験した歴史的イベントといえば真っ先に挙げられるのが東京オリンピックでしょう。小学生の時でした。開会式に行われたブルーインパルスの五輪の輪は直接肉眼で見ましたし、聖火リレーも見ることができました。小学校が国道20号線の近くにあったので、全校生徒でマラソンの応援に行きました、哲人アベベ選手の走りに感動したのを覚えています。

当時マラソン中継で新技術が使われました、テレビ中継車から上空のヘリを経由してNHKまで電波を飛ばすことで、マラソンの同時中継を実現したのです。そのために中継器を載せたヘリコプターが、近くのNHKのグラウンドまで試験飛行&着陸を繰り返していました。

NHKのグラウンドは、NHK職員の福利厚生施設ですが、大河ドラマの「忠臣蔵」の討ち入りのシーンはこのグラウンドで撮影されました。撮影は深夜だったのですが見に行ったのを覚えています。吉良邸のセットの見事さにはびっくりしたものです。

その他、国立西洋美術館に、ルーヴル美術館からミロのビーナスが来たときには、大騒ぎでした。朝から並んで、中に入れたのは閉館間際、8時間並んでやっと見れたときは、感激するより疲れきっていました。疲れた記憶しかないのが悲しいです。同じようにモナリザも日本で見ました。これは、美術の教科書に載っているより色鮮やかだったことに驚きました。海外から有名な美術品が来ると、必ず母が連れて行ってくれました。今になってみれば感謝です。

建設中の歴史的建造物を見たのは、先日も紹介させていただいた関空が挙げられます。完成まで見れなかったのが残念なところですが、建設が始まったころだったですね。海岸からだんだん杭が沖に伸びていく様子を思いだします。

もうひとつは、東京スカイツリーです。錦糸町の駅を降りて職場へ向かう道は、まるでスカイツリーを目指して行く感じでした。なので、建設中は毎日チェックしていましたねー。 第1展望台から上は、スカイツリー本体に3本のタワークレーンを立てて作業していました。 あのクレーン、最後はどうなると思います? タワーが出来上がると、1本のクレーンで残りの2本のクレーンを解体して地上に降ろします。次に少し小ぶりのクレーンを設置して、残った大きなクレーンを解体します。さっきの小ぶりなクレーンよりさらに小ぶりなクレーンを設置して、少し大きいクレーンを解体します、以上の手順で何度解体・設置を繰り返し。最後のクレーンは、解体すれば人間の手で運べる程小さいものになります。人が手に持って、展望用に設置したエレベーターで運び出しますl それらの工程を毎日観察出来たのです。これは結構感激しました。 もう1つびっくりすることがあります。第2展望台より上は、アンテナ部分ですが、この部分は建設中はタワーのなかで組み立てられ、出来あがってから少しづつ引き上げれられて、634メートルになるまで中から繰り出されていったのです。 このように毎日見ていると、建築方法も見えてくるのが面白いですね。 あの頃は、自称「現場監督」が沢山いました。何を隠そう私もそのうちの一人だったんですよ(笑)。


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今まで住んだ所の想い出など・・・・

今住んでいるところ、職場界隈、生まれ育った所と順に紹介してきましたが、今日は今まで住んでいた所の話題です。

私は、幼少のころから28歳まで東京の杉並区に暮らしていましたが、結婚してからは東京都保谷市(現在は西東京市)ひばりが丘に、ほんの僅か住んでいました。通勤は西武池袋線で池袋まで行き、そこから地下鉄丸ノ内線に乗り換えて大手町まで通勤していました。井の頭線以外で通勤したことがなかったので、始めは緊張したのを覚えています。

その後、小平市へ転居。小平市は今でも変わらず小平市ですね。今度は同じ西武線でも新宿線です。花小金井から高田馬場で地下鉄東西線へ乗り換えての通勤です。当時、地下鉄東西線には車内冷房が完備されていませんでした。夏の通勤は地獄のような暑さでした、今考えると信じられませんね。
住んでいたのは、都立小金井公園や小金井カントリーの近くで、ほんとに緑が多く、夏の初めにカッコーの鳴き声が聞こえたのには驚きました。東京でカッコー!信じられます? しかし、いいことばかりじゃなかったのです。家の周りに杉の木がたくさんありました! 春になるとオレンジ色の花粉が容赦なく飛ぶのです。花粉症が発症したのがココでした。いやー、ほんとにひどかったです。そう考えると、花小金井って悪い想い出ばかりのようですが、楽しい思い出もいっぱいあります。最初の子が産まれたのもここですし。善き隣人にも恵まれ、家族ぐるみで仲良くさせていただきました。その時の隣人達とは、今でも連絡を取り合っています。

花小金井から転居したのが大阪府和泉佐野市。始めての関西なので、家内もかなり苦労したようです。スーパーに売っている食材が、何気に違うのです。納豆売ってない! わさび漬売ってない! おでんに入れるちくわぶ売ってない! ないないだらけです。通勤は主にJR阪和線で天王寺まで、帰りは南海本線を利用することもありました。ここでのトピックと言えば何と言っても「関空」でしょう! 和泉佐野の海岸から山側に少し上った所に住んでいましたから、窓から淡路島が良く見えました。そこへ関空建設が決まり、海上に杭が打たれて埋め立てられていく様子を眺めていたものです。和泉佐野の街も急速に変化していったのを覚えています。2番目の子もここで生まれました。当時の市立和泉佐野病院はとっても綺麗でびっくりしました。 大阪へ転居した当時、上の子は2歳半位だったのですが、あっというまに関西人になってしまいました(笑)。完璧なネイティブ関西弁を話すようになっていました。近所の子供達との遊びのなかで自然に身に着いたもののようです。関東に帰ってきたら、あっという間に関西弁が消えてしまったのはちょっと寂しい気もします。

再び関東へ戻って、神奈川県の藤沢市の辻堂へ。こちらも海沿いであることは、和泉佐野と同じですが。和泉佐野がこれから空港の街として発展していくところなのに対して、藤沢は湘南文化の中心地として、既に栄えている街だということです。
こちらでの通勤は、東海道線辻堂駅から東京駅まで、帰りは座れるので楽ちんな通勤でした。

そして、現在の長生村へ。最近の3か所は海の近くが続いていますね。海はいいことばかりじゃないんですよ。海が近いと塩害があります。海が南にある藤沢がいちばん酷かったですね。そして、なによりもこわいのが津波の恐ろしさでしょう。東日本大震災のときは長生村に住んでいましたが、10メートルの津波が来るってことで、避難指示が出たようです。私は電車が止まって帰れず、妻だけが避難所に行きました。津波はほとんど来なかったのですが、電話も通じないので詳しいことがわからず、不安な一夜を過ごしました。

今まで住んだ所を紹介しましたが、たぶん現在住んでいるところが最後の住所になるんだと思います(たぶん)。


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私の生まれ育ったところ

今住んでいるところ、今勤務している職場周辺のことを順に紹介してきましたが、今日は生まれ育った所の話題です。

私が産まれたのは、母親の実家がある豊島区駒込ですが(産まれただけです)、育った所は杉並区です。杉並区は、今では立派に東京23区内の住宅地ですが、私の幼少のころは凄い田舎でした。
駅前(井の頭線富士見が丘)の商店もショボショボ、ほとんどが畑、水田も結構ありました。近くに井の頭公園を源にする神田川が流れていましたが、流域はすべて水田でした。

神田川と並行して走る井の頭線、当時は永福町に車両基地があったのですが、私が小学生のころに富士見ヶ丘に移転してきました。線路の近辺の水田がどんどん埋め立てられていったことを今でもはっきり記憶しています。水田の所々には湧水が涌いてとてもきれいなところでした。鮒やドジョウ、ザリガニを採って遊んだ記憶があります。そうそう、鰻を採ったこともありました。

当時の杉並区久我山は、今住んでいる千葉県長生郡長生村よりも、より立派な田舎でした。買い物も、地元の商店ではすべてが揃わないので、週末には井の頭線に乗って吉祥寺まで買い物に行っていました。特に覚えているのが吉祥寺の味噌やさんです。近所にスーパー(西友)が開店しても、味噌だけはそのお店に買いに行っていたのを覚えています。

当時は、新宿も渋谷も田舎の駅で、娯楽と言えば浅草まで足を延ばしていたような気がします。木造の駅舎だった新宿駅。代々木体育館があるあたりは、駐留米軍士官の住宅だったワシントンハイツ。父が勤務していたこともあり、よく行ったので覚えています。まるで日本じゃないみたいでした。といっても外国を知っている訳もないのですが!

子供のころは井の頭線も3両編成のローカル線でした! 東京オリンピックのころにステンレス製の車両が走り始めました。ステンレス製の車両が導入されたのは、東京でも早かったように思います。富士見ヶ丘から久我山、三鷹台、井の頭公園、吉祥寺へと向かう電車は、就職してからも職場へ向かう路線でした。吉祥寺は正に、私の青春時代の街です。もう何年も行っていないので、どんなになってしまったんでしょう! 近鉄百貨店はもうないと聞きましたが・・・・浦島太郎ですね!

そうそう、最近ネットで知ったのですが、井の頭線の神泉駅が改良されて全ての車両のドアが開くようになっているらしいですね!私が利用していた頃は、3両分のドアしか開かず、最後の1両はホームが無いのでドアが空かなかったのです。そうそう急行だって無かったんですよ。全てが各駅停車でした。

そんなこと言ってると歳がわかりますね! でもほんとうに自然豊かな場所でした、信じられませんね。


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勤務先周辺の紹介

昨日は現在住んでいる所の「村人じやお」について書きましたが、今日は勤務地の話をしたいと思います。

最近20年間の勤務先は、台東区蔵前→墨田区横網→台東区御徒町→墨田区石原と言う具合に、隅田川を挟んで行ったり来たりの状態です。最初にこの地域に転勤してきたときは、山の手の育ちの私にとっては、下町のこのあたりは新鮮な感じがしたものです。

台東区・墨田区といえば池波正太郎。ここに勤務するようになってから、ご当地作家ということで時代小説を読み始めました。『剣客商売』はまさに墨田区が舞台、主人公の秋山小兵衛が暮らすのが鐘ヶ淵(鐘ヶ淵といえばカネボウ(鐘淵紡績)の創業地)。小兵衛の後添いのおはるは関屋村の百姓・岩五郎とおさきの次女。などなど、墨田区内が物語の中心。『剣客商売』を読めば読むほどこの地域への愛情が高まりました。
『仕掛人・藤枝梅安』や『鬼平犯科帳』も舞台は台東区・墨田区です。

時代小説といえば、今は佐伯泰英。この人の時代小説も、隅田川界隈が舞台になっていることが多いですね。隅田川(大川)があって、竪川(たてかわ)、横川などの人工河川が碁盤のように走っています。小説のなかでも、これら川を船で移動するシーンが多く登場します。このあたりは水の都と呼ぶのにふさわしい地域だったようです。今ではほとどの堀が埋められて公園になっています。

皆さんは竪川・横川の名前の由来をしっていますか? 現代の地図だと普通ノースアップ(北が上)ですよね、そうすると地図上で竪川は横方向に横川が縦方向に走ることになります。
以前、職場の近所にある、古くから商売をやっている会社にお邪魔して、飾ってあった古地図を見せてもらったことがあるのですが、江戸時代は江戸城を中心として考えるので、地図も上に江戸城(隅田川)となります。そのとき私が見た地図も隅田川が地図のトップに水平方向に書かれていました。江戸城(隅田川)に対して縦方向に掘られた川なので竪川、横方向に掘られたのが横川となるわけです。

竪川の開削後すぐ、隅田川(大川)に近いほうから順に一之橋から六之橋まで単純に番号を振った橋が架けられましたた。これらの橋は通称として「一ツ目橋」「二ツ目橋」などとも呼ばれ、「三ツ目橋」「四ツ目橋」を渡る通りは後にその名を取って「三ツ目通り」「四ツ目通り」と名付けられました。ちなみに現在の勤務先は三ツ目通り沿いにあります。なお、二之橋・五之橋を渡る通りは現在それぞれ清澄通り・明治通りと名付けられている。一之橋は回向院の南西に現存し、この橋を通る道路は墨田区によって「一の橋通り」と名付けられています。また、かつては新六の橋の東側に「六之橋」もあったが、前後の区間が完全に暗渠となったため、現在は橋ではなく単なる道路として扱われています。

このように、通りの名前ひとつにも歴史があるので大変面白いです。時代小説ファンにもたまらない地域なんじゃないでしょうか?

墨田・台東地域は、東京スカイツリーや浅草といった東京の観光名所があります。特に東京スカイツリー近辺は、開業の前と後を知る者にとって、最近の観光バスの多さには驚かされます。東京スカイツリーと浅草が一体となった観光地として、国内だけでなく、海外からも多くの観光客を集めています。最近気がつくのは、中国からの観光客だけでなく、欧米からの観光客も非常に増えているということです。

東京スカイツリーが開業してから、ずいぶんとオシャレな街になりました。特に錦糸町の北口から東京スカイツリーまでの通りに「タワービュー通り」という名前がついて道路が整備されとても素敵な通りになりました。

古くて新し街、墨田・台東。私は好きです!


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「村人じやお」ってな~に?

今日は、ブログタイトルである「村人じやお」について説明したいと思います。「村人」むらびと。千葉県で唯一の村、長生郡長生村の住人の「おやじ」を指します。 平成の大合併で、千葉県内にあった村は、全て統合されてXX市となってしまいました(三芳村→南房総市、蓮沼村→山武市、本埜村および印旛村→印西市)。長生村だけは合併を選ばず、村のまま存続することを選んだのです。なので、千葉県内には行政単位としての村は長生村だけになってしまいました。

そんな誇り高き長生村ですが、そんなに歴史があるわけでもないのです。昭和28年に、高根村・一松村・八積村が合併して長生村が発足したのですが、長生郡が発足して最初に合併してできる村ということで「長生村」という名前になったということを、どこかで見たことがあります(記憶はあいまいですが)。結構名前の謂れはいいかげん(失礼)なようです。

村内に、JR外房線の八積駅を有し、国道128号が通るなど、交通の便は意外と良い方ではないでしょうか。茂原市や千葉、東京へ通勤する人も多いのも特徴です。村内に双葉電子工業の国内生産拠点である長生工場と独身社員寮がある。同社からの事業者税及び従業員からの税収が主な収益源となっている。人口も郡内最大で、全国で7番目に人口の多い村としても有名である。

工業にも力を入れているが、基本的には農業地帯である。九十九里浜の中では南に位置する。地形は緩やかで起伏は少ない。九十九里の温暖な海洋性気候を利用して作られる「長生(ながいき)トマト」や「長生(ながいき)メロン」、「長生(ながいき)葉玉ねぎ」などブランド野菜が生産されています。また、最近では生産量が激減しているものの、一宮川河口の汽水域で生産される「長生青海苔」は長生村を代表する特産品だった。

農業、工業に次いで3番目の産業として観光も主な産業になりつつある。古くは一松海水浴場の海水浴だが、近年ではお隣の一宮町とともにサーフィン客が多い。また、オーシャンスパ九十九里 太陽の里も多くの観光客を集めている。最近では中国からの観光客を取り込むなど、新たな展開が期待できる。

空気がきれいなのがなにより。車のボディーの汚れ具合でわかります。都内を走ると一日でボディーの表面に黒いススみたいなのが付着しますが、長生村ではそれがないんです!

空気がきれいで温暖な気候、そこでのんびり暮らすのが「村人じやお」ってわけです。とはいうものの、私は長生村で生まれ育ったわけではないのでネイティブ村人ではありません。わたしのように、長生村の魅力にとりつかれ、他所から転入してくる「村人」も増えているのです。


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